第15回シンポジウム:アピール文
【2016年9月13日 第15回シンポジウムにて発表】
ちょうど1年まえ,私たちは自らが生きるこの国と社会が大きく変わろうとする現場に立ち会っていました。閣議決定によって憲法解釈が「集団的自衛権」行使を容認するものに変更され,また,新安保関連法案が成立しました。安保法制は今年3月に施行され,日本は現実に戦争をする国,「反テロ戦争」に参加する道を進みつつあります。
こうした道を進むことは,いったい誰が「決定」したのでしょうか?「主権者」である私たちは,これらの「決定」に責任を持つことができるのでしょうか?この国の行方と社会のあり方を決める主権者としての私たちの「自己決定権」は尊重されていたのでしょうか?
戦争は自然現象ではなく,人間が起こすものです。だから,人びとは「戦争への道」を選択したこと,それにともなう結果に責任を負うことになります。しかし,この国は「イラク戦争への道」を自前で検証することを避けてきています。第二次世界大戦とそれに先行する中国侵略の戦争責任も依然として〝あいまい〟なままです。そして,多くの人びとは「だまされた」という意識で深い自己検証のないまま過去の自分を納得し,戦後社会を形づくってきたのです。
確かに戦後日本の平和主義は,苛烈な戦争体験に根ざした主権者としての選択であったのでしょう。しかし,そこにどれだけの過去への責任意識と,未来への主体的な責任意識が自覚されていたのでしょうか。また,そのことがどれだけ自由な討論を通して人びとのあいだで語られてきたのでしょうか?
主権者としての選択と自己決定は,多様な選択肢を自由に議論しあうなかで,個々人が責任意識をもって行うものです。すでに秘密保護法制を持ち,メディアは「萎縮」し,立憲主義を無視する政治を行うこの国と社会に,主権者の選択に不可欠の自由な討論空間は存在しているのでしょうか?
他方,「主権」は領土問題など排外主義的にも利用されることばともなっています。主権者としての自己決定が,他者を排除・攻撃することなく,どのような共生社会を創っていけるのか,例えば沖縄での思索にはその可能性がふくまれています。
私たちのシンポジウムも,平和を創る「主権」のあり方を,多様性に開かれたかたちで議論する場として存在しています。
私たちは,主権者としての選択を軸に国家の行方や社会のあり方が決定される社会を創造することを求め,戦争に向かう「主権」の行使を厳しく批判します。
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