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第33回シンポジウム:アピール文

【2018年3月13日 第33回シンポジウムにて発表】


憲法(Constitution) とは単なる条文のことではなく、国民によって生み出された権力が国民のために適正に使用されるための仕組みのことである。日本国憲法の前文に、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。この「人類普遍の原理」こそが、憲法の核心である。


国家権力を直接に行使する行政権が、立法権によるコントロールをうけるのは、この「人類普遍の原理」を実現するためである。このコントロールの仕組みを一言で表現すれば、行政権は立法権に対して説明責任を負うということである。「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」とする日本国憲法66条3項は、この責任を明示している。憲法62条の議院の国政調査権、憲法63条の大臣の議院への出席義務は、この責任を具体化するための重要な規定である。


さらにいえば、国会は、国民のために行政権に対して説明を求める責任がある。かように、「人類普遍の原理」を体現する憲法の仕組みにおいて、権力を保持する者は、国民のために権力を行使するべく義務づけられているのである。憲法15条2項に、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」とあるのは、このことを示している。


この「立憲主義」の仕組みは、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とする99条に凝縮されている。ここで名宛人となっているのは、「公務員」であって、国民ではない。国民は、自らのために、この憲法の仕組みを機能させる存在だからである。


2018年3月13日現在、この「人類普遍の原理」を揺るがすような重大事件が起きている。森友学園問題において国会に示された「決裁文書」が、改ざんされたものであったことが明らかとなったのである。そもそも森友学園問題とは、首相と首相夫人に近い人物が、国有財産を非常に安い値段で購入したことが問われるものであった。それに対する国会への回答が行政権によって改ざんされていたのである。このようなことがもし許されるのであれば、憲法という仕組みそのものが破壊されることはいうまでもないだろう。


かつて大日本帝国憲法のもとで政治家・官僚は天皇にのみ責任を負う存在であった。いったん、国家の危機に際会すれば、国家利益を守るため、公文書などを廃棄すること、つまり事実を隠蔽することに何の躊躇もしないことは敗戦後の事態を見ても明らかだろう。その結果が、戦争の実態の解明をどれだけ遅らせて来たか。むしろ民間の人びとの地道な努力が、かつての戦場の様子を明らかにし、アジア民衆の被害を明らかにし、かつ伝えてきたことは、今日のみならずこれまでのシンポジウムで明らかになった成果だろう。


「自衛隊日報」問題は、今回の事態と同根であると同時に、今後日本がかかわる軍事行動そのものを市民の監視からおおいかくすものだろう。このような体質の国家が戦争に参加しようとしているのである。そもそも新安保法案を「議決」した委員会議事録はきちんと「事実」を伝えているのだろうか?また、このような権力者によって主導される憲法改正によって、わたしたちはいったいどのような社会で生きることになるだろうか?


以上のように、森友学園に関する公文書改ざん問題は、「立憲主義の破壊」という意味で、新安保法制およびそれを隠蔽するための憲法改正と本質的につながっている。わたしたちは、今度こそ、立憲主義のメカニズムによって、内閣に憲法上の責任をとらせなければならない。わたしたちが、コントロールなき行政権の行使を見過ごすことは、将来の日本国民に対するわたしたち自身の責任放棄となることを忘れてはならない。


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